理由もなくさみしい人たち

今年はよく「桜ノ宮も桜が綺麗らしいよ」という話を聞いた。今年の春はその話を4回も聞いた。その度に「あ、聞いたことある、綺麗らしいね」と答える。私にとって桜の季節のそのような会話の中で「桜ノ宮の桜が綺麗だった」と言う人が居ないことだけが救いだと思う。


「このあたりってやっぱり名前の通り桜が咲くのかな」2年前の冬の初め、桜ノ宮に住んでる人と付き合っていた。その人はその年の夏に地方から出てきたばかりの桜ノ宮の春を知らない人だった。出会い系サイトで知り合った、ひとつ歳上で家事が苦手なコールセンターで働く人。待ち合わせた駅の改札前にあったチェーン店のカフェで、どこに住んでいるのだとか仕事は何をしているのだとか趣味の話だとか、当たり障りのない話をしていた。とりわけ盛り上がるような話もなかった。相手にとってもきっとそうだっただろうと思う。Sサイズのコーヒーも飲みきらないうちに話題もなくなる。「このあとどうする、家くる?」と言う。電車で二駅、10分もあれば行けてしまう距離。家でもいいけど他に何かないかな、と少し考えたふりをした。「そうしよっか」まだ冷めきらないコーヒーを一気に飲みほした。


お互いに理由もなくさみしかっただけだと思う。「付き合って」と言われ「いいよ」と返す。嫌いじゃないから受け入れただけ、なんて歌もあったっけ。それからは休みの日が重なると何をするでもなく家に行くだけ。ときどき買い物に出かけることはあったけど、どこかへ遊びに出かけるということはなかった。

 

そんな数ヶ月を過ごした三月の末のこと、職場の人に聞いたという。「このあたりやっぱり桜が綺麗らしいよ、次の休みにお花見しようよ」その話を最後に私はその人と別れることにした。理由もなくさみしかっただけだから。だから私は桜の季節のあの街がどれほど綺麗なのかは知らない。あの人はきっとそれを知っているんだろうなあと思うと少し羨ましい気もする。「今日何してた?」が口癖の人と桜の季節の話。