それは未練ではなく

例えば、たとえばの話。痛みや傷痕に伴っていだく「愛しい」という感覚が、痛みや傷痕が消えてしまったとき、その感覚の寄りそう場所がなくなったときにこそ大きくなればいいなと思うような日もあって、そもそも痛みや傷痕を作ってしまったことが間違いだったと思うような日もあって。何の意味もない数字をなぞって与えられる1日1日を、特に好きな味であるわけでもなく口がさみしいという理由だけで適当に放り込んだ飴玉を舌でころがして溶かすようにして過ごすのはちょっと悲しい。

 

あの頃の私はただただ悲しかった。何か具体的な悲しさがあるというわけでもなく、ただ何となく悲しいという漠然とした感覚だけがあった。強いて言うならば、世界のすべてがカレンダーの日付通りに行われていることが悲しかった。1月だからこうだとか、9月だからどうだとか、挙句の果てに何月何日は何の日だとか。私が夏が好きだというと誰かが暑いのは苦手だと返す。私が夏が好きだというと誰かが冬の方が好きだと返す。でも私はそんな難しい気候や暮らしの話はしていなくて。私は夏が好き、それだけの単純な話を、賛同でも否定でもなく聞き流してくれたからよかった。物事を複雑にせず、単純なまま受け入れてもらえたからよかった。

 

私が夏が好きだと言っても聞き流してほしい。水槽は水平に保っていてほしい。うまく切れない包丁を勝手に研がないでほしい。大きくて確実なものよりも小さくて不確実なものを大切にしたいという気持ちに対して、それは何故かと聞かないでほしい。私が「今日も一日愛しています」と言えば、「こちらも今日も一日愛しています」と返してほしい。その愛が、カレンダーに並んだ間違いだらけの数字を、ひとつでも正しく意味のあるものに書き換えてくれるよう。例えば、たとえば一年前の10月15日の話。