それは未練ではなく

例えば、たとえばの話。痛みや傷痕に伴っていだく「愛しい」という感覚が、痛みや傷痕が消えてしまったとき、その感覚の寄りそう場所がなくなったときにこそ大きくなればいいなと思うような日もあって、そもそも痛みや傷痕を作ってしまったことが間違いだったと思うような日もあって。何の意味もない数字をなぞって与えられる1日1日を、特に好きな味であるわけでもなく口がさみしいという理由だけで適当に放り込んだ飴玉を舌でころがして溶かすようにして過ごすのはちょっと悲しい。

 

あの頃の私はただただ悲しかった。何か具体的な悲しさがあるというわけでもなく、ただ何となく悲しいという漠然とした感覚だけがあった。強いて言うならば、世界のすべてがカレンダーの日付通りに行われていることが悲しかった。1月だからこうだとか、9月だからどうだとか、挙句の果てに何月何日は何の日だとか。私が夏が好きだというと誰かが暑いのは苦手だと返す。私が夏が好きだというと誰かが冬の方が好きだと返す。でも私はそんな難しい気候や暮らしの話はしていなくて。私は夏が好き、それだけの単純な話を、賛同でも否定でもなく聞き流してくれたからよかった。物事を複雑にせず、単純なまま受け入れてもらえたからよかった。

 

私が夏が好きだと言っても聞き流してほしい。水槽は水平に保っていてほしい。うまく切れない包丁を勝手に研がないでほしい。大きくて確実なものよりも小さくて不確実なものを大切にしたいという気持ちに対して、それは何故かと聞かないでほしい。私が「今日も一日愛しています」と言えば、「こちらも今日も一日愛しています」と返してほしい。その愛が、カレンダーに並んだ間違いだらけの数字を、ひとつでも正しく意味のあるものに書き換えてくれるよう。例えば、たとえば一年前の10月15日の話。

確か梅雨があけた頃だった

「新居を探すからついてきて」と言うからついていった。私はそのときはじめて大国町という街に行ったけど、難波の隣駅、歩いて10分もかからないとても近いところなのにどこか遠くまで来てしまった気持ちだった。その人は出会い系サイトを介して以前にただ一度会っただけの名前も知らない人だった。その人が不動産屋で書類にサインをするとき、その手の動く先に書かれた名前を見て「そんな名前だったんだ」と小声で言ったらこっちを向いて何も言わずに微笑んでいた。大国町周辺の物件を何件かまわって「この部屋眺め良いね」だとか「お風呂狭くない?」だとかそんな会話をしていた。名前を知ってすぐの人。結局その日のうちに新居は決まらなかった。2週間ほど経ってから「新居決まったよ、それからこの前旅行に行って君にぴったりのお土産買ってあるからいつでも遊びにおいで」と連絡がきた。「次の休みに遊びに行くね」と返事をしてからもう5年が経った。

 

「君は髪を切って茶髪にした方が似合うよ」と言っていたこと。コンビニで煙草を買うその後ろ姿が何だか格好良く見えたこと。その人は赤と黒のチェックのシャツがお気に入りだったこと。6つほど歳上だったこと。出会い系サイトで初めて会った人だったこと。時々意味もなく「寂しい」と言っていたこと。記憶の片隅に残っているものを掻き集めても名前も顔もうまく思い出せなくて、でもそれが悲しいとは思えないけど。

 

当時より髪も伸びて黒髪のままだし、自分も煙草を吸うようになってそうやって煙草を買う姿が格好良いと思うことはなくなった。赤と黒のチェックのシャツなんて私の趣味ではないし、当時のその人の歳と同じくらいになってしまった。そして出会い系で何人もの人と会って、その中に意味もなく「寂しい」と言う人がたくさん居ることも知ったけど、あのときのお土産がどうなったのかなあなんてそれだけが少し気掛かりだったりする。日差しが少し痛い、梅雨があけた頃に出会った人の話。