chapter 3

今年の夏は終わっても悲しくなかった。まだ終わってないのかな、それすらわからないくらいには季節が曖昧になっている。

 

「夏の終わりは僕たちをおかしくさせる薬なんです。駄目なんです。汚れることが美しいと教えてくれた紫の夜明け前。」なんて歌に救われたりもした。夏にはいつだって傷ついていたし、傷ついて悲しむことが当然で、だからこそ夏は優しかった。私たちがどう暮らそうがそこに夏はあって、凛とした姿でそこにあって、平等に傷つける。冬のように人を選んで寄り添ったり離れたりせず、みんなに等しく存在していた。


そうやってぜんぶ夏のせいにすればよかった。夏のせいにして、夏に傷つけられたふりをしていれば、誰も咎めやしなかった。それなのに、その優しい夏が終わっても、終わろうとしても、何も思わなくなった、夏に救いを求めなくなった。求める必要がなくなったのかもしれない。


私の心が強くなった?それとも本当に夏が曖昧になった?答えはわからないけれど、この夏が盛りだくさんだったことは確かだ。夏のうちにすべきことを夏のうちにできた。探せばやり残したことはあるだろうけど、それはまた次の夏でいいやという気持ちになっている。
そうやってまた次の夏のことを考えられるし、その思い描く次の夏も悲しい夏じゃない。


私の好きだった夏が行ってしまって心の拠り所が不安定。かと思いきや、曖昧な季節のうえにきちんと立っている。曖昧なものは曖昧なものとして、細部まで知ろうとせずに曖昧なまま単純に受け入れられているような気がする。だから私は蝉の鳴き声がきこえなくても、シャボン玉が飛ばなくても、朝4時の青色が霞んでしまっても、ひとつも悲しくなんかない。


「涼しくなったら思い出すことある?」と聞かれたけど何も思い浮かばなかった。記憶力が乏しいというよりも思い出はぜんぶ夏になっている。どんな寒い日の出来事も、一定期間が経てば頭の中の「夏」と題されたフォルダの中に放り込まれている。こういうところにまで片付けができない性分がでてきて嫌だなあとは思うけど、こうしてどこかの思い出の中で夏が生きていてくれたらそれでいいかもしれないな。


これまでのひと、これからのひと、すべてのひとびと、みんな夏感じてますか。それだけが少し気になります。